| sugitaru • PM |
Mar 13, 2014 7:15 AM
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sugitaru
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星住省吾が、若い妻を携へて樺太を去つたのは、一千九百三十五年の秋である。
業者の間ではまだその名を知るものは少なかつたけれども、その道にかけては、既にいつぱしの専門家であり、数百の狐舎もろとも、バラックではあるが二十坪あまりの住居を売り払つて、彼は数万の現金を懐にし、二頭の種狐を子供のやうに大切にしながら、内地に引きあげて来た。 吾妻養狐場は、かうして、時代の波に乗つた。 が、それは、永くは続かなかつた。日華事変以来、輸出は急激にとまり、内地の需要は、それに並行して下降線を辿つた。銀狐の襟巻は、国賊の象徴とさへなつた。千円の代物が、二十円でも買ひ手がつかない有様であつた。生きものでさへなければ、ストックにして時節を待つといふことも考へられる。だが、一日少くとも五百匁の魚肉、獣肉を必要飼料とする、口のおごつたこの生きものは、非常時においては、まつたく、無益な穀つぶし、猫にも劣る無芸の居候である。 養狐業組合の対策協議会は、たゞ、いかにして、経費を最少限度に喰ひ止めるかといふ問題に論議が集中した。ニシンにしても、馬肉にしても、値上りは日に日にめざましく、あまつさへ、入手困難の兆候がありありと見え、輸送の道がもう途絶えることはわかりきつてゐた。三郷市 歯医者 |