| sugitaru • PM |
May 09, 2014 10:35 AM
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sugitaru
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そして、そのつぎに、家のひとの顔を思い出そうとしました。それがどうでしよう。誰の顔も、はつきりと眼にうかばないのです。せめてお母さんの顔をと思つて、じつと眼をつぶつてみたのですけれど、もやもやとした記憶の影が、まつたく表情のないリンカクだけを描き出しているのです。たゞ、お兄さまだけが、はつきりと、そこに、口を動かしておいでになるではありませんか。美佐は、思わず、お兄さんと、声を出して呼びました。涙がとまらないのです。
明日、おひるから、箱根へまいります。もう夜が明けかゝつています。この手紙が、美佐の冷たくなつたふところから取り出されるのは、明後日の朝になるでしよう。 では、これでお別れいたします。どうぞ、どうぞ、大きな幸福がお兄さまをおとずれますよう、美佐はお祈りいたしております。 読み終つて、京野等志は、その手紙を握つたまゝ、つと座をたつた。悲しみとも、憤りともつかぬ感情が、胸をかきむしつた。彼は、自分が、今、誰からも見られたくないという気持で、無意識に、二人の女の前から姿を消したのである。 夜風の流れている渡り廊下へ出た。彼は、もう、泣いてもいゝと思つた。しかし、涙は喉につかえて、闇の樹立に注がれている眼は、冱えかえるばかりであつた。 妹の遺書は、取乱したところがわりにないばかりでなく、一種、ほこりをもつた女の抗議とでもいうべき語気にみちている。 その抗議は、とくに、誰に向つてというのではない。むしろ、眼に見えぬ、周囲の暴力に対してであるように思われ、彼は、すこし張り合いぬけがして、大きく溜息をついた。 イククル・イクヨクルヨ |